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There's Something Fishy

映画研究、文芸批評、テニス評論

「アベセデール」雑感ーーあるいは人生に伏線を張ること

世間の流行に乗って(というか既に出遅れている感がありますが)、ドゥルーズの「アベセデール」を少しずつ見進めています。

まだ半分も見ていないのですが、どのトピックも非常に充実していて、内容をきちんと咀嚼していこうと思ったら、どうしてもスローペースにならざるをえません。一気に見るのはもったいないという感覚。自分が見た内容を、見ていない時間に反芻する必要があります。

既にいくつも心に残るフレーズや見識が出てきているのですが、僕がとりわけ心を惹かれたのがCの「教養」のパートで、ドゥルーズが映画や展覧会に出かけて行く理由を「待ち伏せ」のためだと述べていた箇所です。

作品と、他者と、アイデアと出会うために出かけて行く。

僕が一時期批評再生塾の企画に熱心に絡んでいったのは、おそらく「待ち伏せ」するためだったのだろうと、そのとき腑に落ちました。

もちろん、提出された課題文について某匿名掲示板にあれこれ好き勝手な感想やコメントを書き込んだり、自分で課題に応答して文章を書いてみたりむことが純粋に楽しく、その行為に熱中していたからということはあるですが(パスカル的「気散じ」)、他方で、それだけのためにしては少しエネルギーを割きすぎているのではないかという思いが自分のなかにもありました。

人生に伏線を張ること。

それが一つの答えだったのかなと思います。最近になって、ちょこちょこと張り巡らせてきた伏線が、少しずつ回収されはじめている感覚があって、このブログもそうですが、次の展開に向けて、新たな伏線を張る場所にしてみようと思うに至りました(ドゥルーズも強調しているように、これは人と人とが面と向かって会ったり話をしたりということではまったくありません。僕自身も、楽しみにしていた人と直接会ってもがっかりしたりされたりすることがほとんどなので、むろん場合にも寄りますが、できることなら尊敬している書き手にはあまり直接会いたくありません。テクストの上で出会えているのなら、それで充分です)。

まあどんな意味においても、実人生において伏線はたいていの場合は回収されません。そして、開き直りではなく、それでいいのだと思います。というか、じっさい伏線なんて10や20張ってみて、そのうち一つか二つが不完全な形であれ実を結べばそれで充分だろうと思うわけです。むしろこのとき重要なのは、回収されなかった伏線の方です。むろんこれはケースバイケースですが、伏線は基本的に回収されてしまえばそれでおしまいです。回収されない伏線は常に回収されるときを待ち続けているとも言えるわけで、だとすればそれが多い方が、総体としての人生は豊かであるということになるのではないか。つまり人生の豊かさは、文字通り、回収されていない伏線の質量によって決まるのではないか。

次回のテーマは「歌い手」とのことで、余裕があったら久しぶりに短いものを書いてみようかと思っています。今のところ映画のなかで描かれている特異な歌唱シーンの検討というようなことを考えていて、たとえば『リンダ リンダ リンダ』や、(これは映画ではありませんが)『涼宮ハルヒの憂鬱』(「ライブアライブ」)のような物語のなかに組み込まれている歌い手の存在について書くといった方向です。最近マイブームが来ているエドワード・ヤンの映画でも歌唱シーンが突出している作品がいくつもあります(台湾映画は歴史的な背景もあって、作中で言語[国語]の問題が前景化しているケースが多くて、その場合に歌というのは非常に象徴的な機能を帯びてきます)。おもしろそうな例を挙げればキリがありませんが、このアプローチにある種の利便性があるとすれば、物語という文脈を参照することができるので、その関係を踏まえて歌い手の身体性を問題にできる点です。

それ以外には、普通に歌手が出演している映画の歌唱シーンを取り上げるというパターンも考えられます。最近では『はじまりのうた』で、(キーラ・ナイトレイもいいですが)マルーン5のアダム・レヴィーンが歌手の役で出演していたりしましたね。あるいはもっと単純に歌手による歌手のための映画(ビートルズザ・タイガースなど)や、ドキュメンタリー映画(『ストップ・メイキング・センス』など)の細部を検討してもいいかもしれません。まあ、こうなってくるとものによってはMVを扱うのと大差なくなってきそうですが。

もっとも、ここにつらつらと「不潔なおしゃべり」を書き連ねてきたのは、もし自分が書くとしたら上記二つのパターンとは違う形の構想が別にあるからなのですが、それはできるだけ「清潔なテクスト」として差し出したいので、ここでは触れないでおくことにします。