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There's Something Fishy

映画研究、文芸批評、テニス評論

舞城王太郎『淵の王』

 既存の文学的枠組みの拡張に成功した小説を純文学と呼ぶならば、舞城王太郎の『淵の王』こそ、その名にふさわしい。

 ネット上のいくつかのレヴューで既に指摘されているように、本作品の三人の主人公を見守っている語り手の「守護霊」たちは、どうやらそれぞれ別の章で主人公だった存在であるようだ。本書は三章からなり、それぞれの主人公は中島さおり、堀江果歩、中村悟堂となっている。このとき、さおりの章の語り手が果歩、果歩の章の語り手が悟堂、悟堂の章の語り手がさおりとなっているらしいのである。この仕掛けについては小説内で明示されているわけではないが、随所にヒントが散りばめられている。
 たとえばさおりの章では冒頭からナボコフの名前が挙げられ、映画監督への言及があったあとでさりげなく「マンガ」という言葉が置かれている(7頁)。この章で語り手を担当している果歩は、中学生の間に『世界文学全集』と『日本文学全集』の全巻読破を目論む勤勉な文学少女であったが、やがて「マンガ」に目覚め、漫画家として成功することになる人物である。「三十六歳で処女のまま、最終的に終わりを終える」(180頁)ことになる果歩は、高校生のときに自分はレズビアンかもしれないと思い込んだりもするのだが、これは彼女が傷つけられたさおりを前にして「あなたを含んでいるという理由で、私はこの世界が好きだった」(84頁)と告白していることとも響き合うだろう(主人公と語り手の性別が同じなのはこの章のみ)。
 古典文学への度重なる言及も三人を結びつける役割を果たしている(そもそも本書のタイトルからして作者の念頭にゴールディングの『蠅の王』の存在があったことは間違いなかろう)。第1章冒頭の『ロリータ』しかり、第2章では『白鯨』、『アンナ・カレーニナ』、『戦争と平和』への言及がある。第3章には、一見すると文学者も古典作品も登場していないように見えるかもしれないが、むしろあからさますぎるために気づかれにくくなっているだけである。それは章の最初に明示されているし、その後も二頁おきに欠かすことなくあらわれ続けている。すなわち、中村悟堂という名前がそうなのであり、より正確な言い方をするならば、それは「Godo」というローマ字表記の形をとって姿を見せている。これがサミュエル・ベケットの古典的戯曲『ゴドーを待ちながら』(En attendant Godot)への目配せであると強弁するにしても(じっさい本章で展開されるのは、死者が悟堂を待ち続けるという不条理な物語ではある)、名前の最後につくべき「t」の欠落という問題が残るが、むしろ、ここではその曖昧さこそが効果的に機能しているとも言える。
 というのも、「Godo」という表記があらわれるのは小説本文のなかではなく、しかしながら確かに小説のページの上ではあるという、文字通りきわめて曖昧な領域だからである。言わば、これはテクストの内と外の文字通り「間」において顕現する何ものかなのである。「Godo」は小説内部と外部、すなわち物語とその読者の間にあって、両者を接近させる役割を果たす。
 読者の存在に対する目配せは第2章で明瞭にあらわれている。ここには「時間の経過」について「過去も未来もなくて時間の経過は一冊の本みたいに全て書かれて全部一緒に存在してて、何かが開いているページ、あるいはその何かが読んでいる文字、そういうのが今ってこともあるのかな?」(160頁)という意味深な台詞が配されている。これは直後の「俺は君を食べるし、食べたし、今も食べているよ」(161頁)という台詞の解説になっている。じっさい、果歩は180—1頁で食べられる。しかし、頁数は時間の単位ではない。それでは、果歩はいつ食べられているのか。読者がその頁を開いているときにほかなるまい。だからその瞬間は未来と現在と過去の可能性に常に開かれ続けている。果歩は、今この瞬間にも、誰かの手のなかで食べられているかもしれない。
 小説のテクストを現実世界にいる読者の位相にまで拡張すること、さしあたって、それが本作品によって舞城が成し遂げた純文学的達成であると言うことは充分に可能であるように思われる。

 

淵の王

淵の王