There's Something Fishy

映画研究、文芸批評、テニス評論

ボウイが死んだ日

「でも、俺らが言うのも何だけどさ。ナンパしてついてくるような女って、正直どうよ?」
 隣のテーブルでは先ほどから大学生風の男たち三人組が今日のナンパの戦果を報告し合っている。声をかけた女性のうち、何人からLINEのIDを聞き出し、そのうち何人からどんな返信があったか、といったようなことだ。しかしいずれにせよ、今ここにいるということは、三人ともその場で女性を連れ出すことには失敗しているということである。先ほど聞こえてきた言葉は、めぼしい成果をあげられなかった自分たちを正当化するための言い訳だったのかもしれない。
「こないだゼミの新年会で4年の先輩と隣になったんだけどさ、「宗教は手段か目的か?」みたいな話をいきなり振られて、最初びっくりしたけど、なんかすげえ盛り上がったんだよね。やっぱそういう知的な会話ができる女の人っていいよなって、すげえ思ったわ」
 こうしたおそろしく傲慢な会話を平然と行うことができる男性に特有の魅力の存在を、我々も認めないわけにはいかない。それを勝ち組の余裕と言ってもあながち間違いではないだろう。彼らの容姿や服装や振る舞いのうちに見て取れるのは、悪く言えば無個性ということになるのだが、現代社会にあってそれは同時に趣味のよさであると言って言えないこともない。また、ある種の女性はむしろ積極的にそうした没個性的で傲慢な男性を求めさえすることも知られている。女性に対する要求水準だけは高い彼らに選ばれることが、彼女たちの自尊感情を満たしうるからである。
 一般論として、ナンパに応じるような女性たちのことをナンパ師たちは軽く見ている。したがって彼らが興じているのは、女性の価値を積極的に貶めるための恐ろしく性差別的なゲームということになるだろう。ナンパの成功は彼らの勝利であると同時に、相手女性の敗北を意味する。彼らにとってセックスしたかどうかというのはゲームの勝敗を測るための指標でしかない。価値があるのはセックスに持ち込む前の女性であり、行為後の女性はほとんど無価値である。文字通り、それは消費行動だからである。セックス前の食事やホテル代に書けるお金は女性という商品に対する対価なのであり、その意味で使用後の商品に価値を見出さなくなるのは合理的な振る舞いである。
「俺も北川景子と結婚してぇ」
 むろんその発言が冗談であることをその場の誰もが疑わない。それはどこまでも安全な冗談である。人は普通、北川景子と結婚したりなどしない。ある事態が絶対に実現不可能であることが分かっていれば、どんな願望でも自由に口にできる。なまじそれがいくらかでも実現可能性を持ちうるものである場合には途端に生々しさを帯びてくることになるだろう。ナンパというゲームはその安全圏と生々しさとの境に顕現する願望の謂であり、したがって男性が身の処し方を誤れば当然滑稽のそしりを免れない。逆に、誰でも絶対攻略可能であるようなゲームに積極的な価値を見出すこともまた難しい。しかしいずれにせよ、それが我々の誇る高度資本主義社会に似つかわしいゲームであることは疑いない。その愚劣さの程度においてこそ、それは我々の社会の紋中紋と呼ぶにふさわしい。
It’s, it’s Warhol actually (What did I say?)
「ところでさっきから流れてる洋楽って、誰の曲? けっこうよくね?」
Whole, it’s whole as in wholes (Andy Warhol)
「知らね。けど俺、レディオヘッドとかなら聞くよ」
Wah, Andy Warhol, Andy Warhol (he)
「え、おまえレディオヘッド知らないの? それはやばくね?」
Are you ready? (Ha ha ha ha ha ha)
 1971年、自らのもとを訪れた当時売り出し中のデヴィッド・ボウイを前にして、アンディ・ウォーホルがとった態度はひどく冷淡なものだったと言う。しかしボウイはその年の瀬に発表したアルバム『ハンキー・ドリー』のB面に「アンディ・ウォーホル」という楽曲をきちんと収めている。また、周知の通りボウイは後年、映画『バスキア』(1996年)でウォーホルその人を演じることになる。
 人々の愚かさを特段咎め立てることもなく、一時代を築いたスーパー・スターの死を平然と消費して、今日も我々の社会はおそろしい速度で回っていく。