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There's Something Fishy

映画研究、文芸批評、テニス評論

『ブリッジ・オブ・スパイ』讃

冒頭、鏡に映る虚像として画面に導入されたソ連のスパイ(ということになっている男)は、続いて彼が描いている自画像に媒介された後で、初めて直接カメラの前に顔を晒すことになる。ここで強調されているのは彼を見つめる他者の視線の不在であり、じっさい、スパイであるらしい彼は最後まで自分が何者であるかを証明することができない。

それと対照的なのがトム・ハンクス演じる主人公の弁護士である。彼は他者を見つめ、見つめられることで正しく現実世界に縫いこまれるという映画的にきわめて正しい人間である。スパイが敵国のアメリカ内でかろうじて人間扱いされるのは、文字通りこの弁護士に見つめられているからである。

ただし、弁護士の視線のうち最も重要なものは、列車内から彼が見た光景の表象である。それは東ベルリンとアメリカ国内とで二度繰り返される。ベルリンの列車内で「壁」を乗り越えることができずにソ連兵に射殺される東ドイツの人々を目撃した主人公は、終盤、アメリカで乗った電車内から、今度はフェンスを乗り越えて遊んでいる子どもたちの姿を見にする。もちろん、子どもたちは誰の妨害を受けることもなく、易々とその壁を乗り越えて進んでいく(このとき列車の車窓がスクリーンの隠喩となっているのは言うまでもない)。

弁護士の主観ショットとして提示される車外の光景は、じっさいにはそれを見つめる三種類の主体を持つ。物語の水準においてはそれはまず弁護士自身の視線だが、現実にそれを捉えているのはカメラのレンズであり、それがスクリーンに映し出され観客に見られることによってはじめて視線のリレーが完成する。つまりこのとき、主人公、カメラ、観客の三者の視線が一致する。
むろんこれはスピルバーグの独創ではなく、少なくとも1910年代からハリウッド映画が積極的に利用してきた技法である(ただ、本映画における切り返しの演出はきわめて洗練されたものであるのは間違いない)。

映画のラスト近く、弁護士の妻の背中が部屋の鏡に映っているショットがある(冒頭との呼応)。このとき彼女が見つめているもの/ことこそがこの映画のテーマそのものである。勝者たる弁護士の夫は他者(女性)に見つめられることではじめてその勝利を認められる(列車内の場面で彼に讃嘆のまなざしを送っていたのもやはり女性だった)。

他方で、弁護士を唯一の例外として、スパイは最後まで誰からも見つめられない。あの橋のシーン、ロングショット内で無造作に後部座席に押し込まれた彼のショットを誰もが目撃している。その意味でこれは文字通りソ連に対するアメリカの明確な勝利であり、同時に古典的な視線編集に依拠するハリウッド映画の制度的勝利でもある。スピルバーグは、アメリカには(そしてハリウッド映画には)人間を人間たらしめるあたたかい眼差しが存在しているということをことさらに誇示してみせるのである。