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There's Something Fishy

映画研究、文芸批評、テニス評論

塩基配列が文学になるとき――イアン・マキューアン『土曜日』論

塩基配列が文学になるとき――イアン・マキューアン『土曜日』論

アンナ・カレーニナ』と『ボヴァリー夫人』という定評ある名作を読み通したこともある。・・・それで結局、何が分かっただろう?・・・神が細部に宿るとすれば、その細部にペロウンは感銘を受けなかった。(80-1頁)[1]

 

「幽霊だの、天使だの、悪魔だの変身だのはたくさん。どんなことでも起こりうる場所では、何事も重要な意義を持ちえない。私には、ああいうものはキッチュだとしか思えない」

「父さんのバカ・・・父さんの石頭。あれは文学で、物理じゃないのよ!」

フローベールトルストイに向かって、同じことを言えるか。あのふたりの作品には、翼の生えた人間など出てこない!」(82頁)

 

* * *

 

 秩序を志向する我々の試みが必ず裏切られてしまうのは、文字通りDNAに書き込まれた必至の宿命なのかもしれない。DNA(デオキシリボ核酸)のヌクレオチドを構成する塩基にはアデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(C)、チミン(T)の四種類があり、この並び方を塩基配列と呼ぶ(これがDNAの最小単位である)。そして、人(に限らないが)の塩基配列はすべてこの四種類の組み合わせからなる。

 

 イアン・マキューアンが長編小説『土曜日(Saturday)』(2005年)で試みたのは科学と芸術(主として文学[詩]と音楽)の架橋である。この目的を果たすためにマキューアンが採用した戦略は、反復に基づく秩序と、その際に必然的に生じる差異が呼び込む破綻を同時に描き出すというものであった。したがって、反復と差異を体現するDNAの塩基配列は、人体だけでなく、文学作品としての本作『土曜日』を構成する最小単位ともなっている。本小説は、この配列のわずかな差こそが人と文学の運命を左右することになるという美しくも残酷な真実を提示しえたきわめて稀有な文学テクストである。

 

 本作『土曜日』では、バクスターという登場人物が罹患しているハンチントン病という遺伝病が重要なモティーフとなっている。彼の病はその性質上、『土曜日』全体の要約と言えるようなものである。ハンチントン病はDNAの塩基配列の偏りゆえに生じる。不随意運動、認識力低下、情動障害等の症状が10〜20年かけて進行していき、やがて個体を死に至らしめる。これは有力な治療法のない不治の病である。この病は第4染色体短腕上に「CAG」の繰り返しが40個以上書き込まれている場合に発現する(非病原性の場合は11〜34個)。すなわち、「たったひとつのコドンの中にCAGの配列が四十個以上あれば、運命は決せられる」(115頁)のであり、「4番染色体の片隅にある遺伝子の真ん中にCAGの繰り返しが四十以上ある人間は、それぞれに独自の様態で、この運命を共有されることを余儀なくされる」(258頁)のである。つまりハンチントン病とは、それを病と呼ぶにはあまりにも完璧すぎる反復の産物にほかならぬものなのである。

 

 主人公ペロウンの職業が医者(しかも脳神経外科医)に設定されているのは、このハンチントン病のモティーフを作品内で有機的に機能させるためにほかならない。分析と議論に移る前に、その物語内容を簡単に確認しておこう。本作はロンドンを舞台に展開される物語であり、中年の主人公ヘンリー・ペロウンが過ごすある土曜日の出来事を描いた作品である。彼は愛する妻ロザリンドとの間に二人の子を設けており、パリの大学に通っている長女デイジーは既に詩人としての才能を開花させ、長男シーオは10代にして早くもギタリストとして成功しつつある。おまけに自分は医者としてのキャリアを順調に歩んでおり、妻は有能な弁護士である(つまり、絵に描いたような完璧な家庭なのである)。

 

 とはいえ、ここでペロウンが過ごすことになる土曜日は『ユリシーズ』的混乱に満ちたものであり、彼の意識は次々とわきあがってくる新たな着想や過去の記憶と結びついて流れるように展開していく。明け方不意に目を覚ましたペロウンは、窓の外にたまたま飛行機事故を目撃する。ニュース速報によれば単なる事故ということだが、9・11後の世界で起こる飛行機事故は嫌でもテロを想起させる。こうしてペロウンの一日は凶兆を孕んだ幕開けを迎える。ベッドに戻った彼は、もう一度眠りの世界に赴き、再び目覚めたあとに、休日出勤前の妻と慌ただしいセックスを済ませ、さらにもう一眠りする。その後、シルバーのメルセデス・ベンツS500に乗って出かけ、途中でデモ行進に出くわし、バクスターという不良青年の車と接触事故を起こして揉めることになる。ペロウンはバクスターからの暴力を受けつつ、その様子から彼がハンチントン病に罹患していることを正しく看取する。医学的知見を用いてバクスターを煙に巻いたペロウンはまんまとその場から逃げおおせ、同僚とのスカッシュに向かう。スカッシュの試合に負けたあと、ペロウンは施設に入っている認知症の母親を見舞い、長男シーオのバンドのリハーサルの予定を思い出して駆けつけ、その夜に予定されていた長女デイジーの帰郷と祖父の訪問に備えて料理の準備をする。デイジーの帰宅、祖父の訪問、シーオの帰宅の後、妻ロザリンドが青ざめた顔をして帰ってくる。彼女はペロウンへの復讐にやってきたバクスターにナイフを突きつけられていたのである。

 

 『土曜日』では、既に確認したDNAの塩基配列のように、ほとんど無限の反復のなかに生じるわずかな入力の差異が出力の質を決定的に変えてしまうという事態が形を変えて何度も描かれていく。たとえば、脳神経外科医という主人公ペロウンの職業や、彼が趣味として嗜んでいるスカッシュ、また彼の娘のデイジーや息子のシーオが才能を発揮している詩作やブルースといった一連のモティーフ群もそのようなものとして機能している。そして積み上げられていったモティーフ群は、最終的にDNAに回帰していくことになる。以下にその詳細を見ていこう。

 

 明け方、寝室の窓からロンドンの街並みを眺めて物思いにふけっていたペロウンの連想は、ほどなくして自身の職業的関心へと移っていく。そこではペロウンのほとんど「機械的」に正確な仕事ぶりが活写されている。「チームと手術室と整然たる手順という閉ざされた世界の中」(14頁)で、「蝸牛から三ミリしか離れていない」(11頁)ような極小の腫瘍を摘出する手術をこなす一方、彼は「機械的に」(15頁)ペーパーワークをこなしていくのである。また、脳神経外科医に不可欠の最新鋭の医療用精密機械類の緻密な描写は、彼の仕事の機械的な側面を強化することになる。何より重要なのは、こうした機械的な正確性は厳密な反復を常に可能にするために要請されているということである。ペロウンの外科手術は何度やっても必ず成功させることが求められる類のものである。つまりペロウンは、その職務の性質上、文字通り数ミリの誤差が致命傷になりかねない繊細な手術過程を、新たな患者に対して常に正確に再現し続けなければならないのである(とはいえ、現実には、どんなに腕のいい医者であれ、手術の失敗ということは起こりえる。たとえば、文字通りミリ単位の微細な入力の誤差によって)。このような外科手術の難しさゆえにこそ、本作の終盤でペロウンは病院に駆けつけねばならないことになる。

 

 このような職業を選択したペロウンがスカッシュを趣味としているのも偶然ではないし、その描写にこれだけの文章量が割かれているのもその重要性ゆえである。スカッシュの登場は冒頭近くで既に婉曲的に予示されている。「すでに深刻な記憶喪失に襲われている」(11頁)という「二十八歳のプロテニスプレーヤー」(11頁)の患者を、ペロウンは受け持っていたのである(ここには記憶喪失という、理性をめぐるもう一つの重要な問題系も重ねられている)。ここでは、スカッシュとテニスというスポーツの差異によって、スカッシュの特質が際立たせられている。すなわち、テニスに比べてスカッシュの方がプレイヤーの動きにおける反復性の度合いが高いのである(それはその動きを規定しているルールの水準においてもそうである)。このとき、極めて限られた密室空間内を飛び跳ねるボールは、その反復的な運動のなかに潜在的な可能性の束を垣間見せる。打ち込む角度が少しずれるだけで、跳球の軌道はまったく別の現実を形成することになる。じっさい、同僚のストロースとの試合では、最終ゲームのプレーのやり直しによって、勝敗自体が入れ替わってしまっていた。本作において、入力の差が明確に結果の違いを生んだこのエピソードの持つ意義は極めて大きい。また、ここではスカッシュのエピソードを通して、ペロウンの肉体的な衰えが示唆される点にも注意を留めておかなければならない。

 

 息子のシーオが才能を開花させた音楽ジャンルがブルースであったというのも象徴的である。ペロウンは「ブルースという形式の限界」に想いを馳せ、「三つの単純なコードで十二小節という形式に一生の満足が見出せるものなのだろうか?」(34頁)という疑問を抱くが、このようなブルースのあり方を、ジェイン・オースティン(この連想が可能となるのは当然、デイジーの影響である。それにしてもデイジー、文学に生きることをなんと宿命づけられた名前であることか)や自らの生業の一部である「動脈瘤クリッピング」(34頁)と関連づけ、「不変の主題の上に、きわめて魅力的な変奏を作り出すこと」(34頁)という本作のテーマを、この時点で先取りしてしまうのである。じっさい、シーオのリハーサルをペロウンが見学に行く場面では、その反復と差異がどのように神秘的な魅力を放っていたかということが描写されている。むろん、ギターのコード(「Cのキー」[158頁]、「Eのキー」[159頁]、「Cのブギ」[160頁]など)は塩基(アデニン[A]、グアニン[G]、シトシン[C]、チミン[T])と比喩的に結びついている。

 

 デイジーが散文(小説)ではなく、詩作の才能をこそ開花させたというのも同様に極めて象徴的な事態である。韻律の統御のもとに成立している西洋詩は、まさにその点において散文と峻別される。そしてこの韻律の存在によって、詩は散文よりも反復と差異とに敏感な文学ジャンルたりうるのである。これはデイジーが高名な詩人である母方の祖父グラマティカスから文学教育を受ける際に「英語の詩と散文のうちで価値のあるものはどれも、この三つ[※シェイクスピア、ミルトン、欽定訳聖書]を源泉としている」(161頁)と教えられることとも通じている。デイジーと祖父グラマティカスとの議論では、じっさい、シェイクスピアソネットを引用するに際して「勇敢にも(ブレイヴリー)」と「我意を通して(ウイルフリー)」の一単語レヴェルでの差異が重要な問題として浮上してくる(「『勇敢にも[ブレイヴリー]』だと音がひとつ足りなくて、響きがおかしいの」[245頁/pp.200])。また、この場面で記憶違いを犯しているのが、デイジーに文学的な素養を手ほどきした張本人のグラマティカスだというのも重要である(あまつさえ彼はシェイクスピアとワイアットの詩を取り違えてしまいさえする)。これは単に娘が「象徴的な父親」を乗り越えたということを明示するだけでなく、祖父の理性が綻びかけていることを暗示している点で意義深い(記憶の衰えを示す祖父の姿は、認知症が進みつつあるペロウンの母親[デイジーの祖母]やバクスターの姿とも重なってくる。このとき、ペロウンの母親が「家事に一生を捧げた女性」[188頁]であったというのは極めて徴候的である。小説にはその家事の行程が事細かに書き込まれているが、母親の人生とはまさにそうした機械的な反復をこなす日々に他ならなかったのである。ペロウンは、母親が抱いていた興味はジェイン・オースティンジョージ・エリオットのそれと同じであったことに気づいてその姿勢を評価し直すことになる。それはまた、シャンタル・アケルマンが『ブリュッセル1080、コルメス3番街のジャンヌ・ディエルマン』[1975年]によって映像詩の境位に高めた当のものでもある)。

 

 だからこそ、自宅を襲撃され、強制的に全裸にさせられて明らかにこのあとレイプされることがわかっているような状況において、バクスターに自作詩の朗読を強要されたデイジーがマシュー・アーノルドの古典詩を「暗唱」したことに大きな意味が生じるのである。だが、その議論を意味あるものにするために、我々は「スキャン(scan)」という単語の使われ方を検討しておかなければならないだろう。「スキャン(scan)」には、「丹念に調べる/ざっと調べる」といった一般的な意味に加えて、「詩の韻律を調べる/詩を韻脚に分ける」という意味があり、さらに医学用語としては「人体を走査(スキャン)する」という意味がある。デイジーとグラマティカスの論争の際、デイジーは「ブレイヴリー」では「スキャンしない」(244頁)という。ここで問題となっているのは当然「韻律」に絡む意味での「スキャン」である。この場面の直後にバクスターの襲撃があり、デイジーの詩の暗唱を経て、階段から落ちて病院送りになったバクスターの手術をペロウンが担当するという展開になる。その手術に際して、「スキャン」という単語が「CTスキャン」(283、298、301頁/pp.245)という医学用語のなかおよびペロウンの台詞のなかに再びあらわれるのである(「スキャンの結果は?」[302頁]/’And the scan?’ [pp.249])。蛇足となるのを承知の上でぜひとも書き留めておきたいのは、デイジーの台詞のなかに出てくる「スキャン」をあえて具体的な日本語に置き換えずにカタカナで訳出した小山太一の果敢な翻訳姿勢を、したがって我々は積極的に評価しなければならないということである。「韻律が合わない」などと訳してしまったら、文字通り「スキャン」しなくなってしまうからである。

 

 そして、この問題が真の意義深さを我々の前に開示するのは、ペロウンの理性の力が「スキャン」を超えていたことが明らかになるときである。「CTスキャン」の結果から、バクスターの「大脳半球間裂上の陥没骨折」(302頁)および硬膜内外の出血のみを正しく読みとった専門補佐医は、ペロウンに「暗い満足」(303頁)を与えることになる。ペロウンは専門補佐医がスキャンを見ても気づくことのできなかったバクスターハンチントン病を、初対面の時点で既に看取していたからである。その意味で、ペロウンは機械よりも正確なスキャンのできる人間であると言える。というより、ここで問題となるのはある現象をどのように解釈するのかという極めて人間的な能力である。ペロウンには詩をスキャンすることはできないが、その理性の働きによって人間の病理をスキャンすることならできるのである。

 

 これでようやくデイジーが詩を暗唱したことの意義を議論することができる。デイジーがマシュー・アーノルドの詩(「ドーヴァー・ビーチ」)を暗唱したことが感動的であるとすれば、それはナイフを向けられているという極限状況にあってもなお、彼女が理性の力によってある反復を成し遂げたからである。バクスターがデイジーに命じたのは、試刷版に収められている自作詩の朗読であった。しかし、デイジーにはそれを読むことができない(それはほとんど精神的レイプとでも呼ぶべきものである。あるいは文芸評論家の渡部直己が懲罰的な意味合いで学生に提出レポートを音読させたという逸話を思い出すこともできるかもしれない)。そこで助け舟を出したのが祖父のグラマティカスである(「デイジー、聞きなさい。私によく読んでくれたのを読むんだ」[270頁])。その意図を理解したデイジーは、アーノルドの「ドーヴァー・ビーチ」の暗唱を行うのである。暴力に強制されて全裸にさせられた若い女性が、その尋常ではない恐怖のただなかにあって一編の詩を暗唱するためには、単なる記憶力以上のものが求められるだろう(時間をかけて答案用紙に暗唱した詩を再現するのとはわけが違う)。しかも彼女はその暗唱を二度、行ってみせる。一度であれば多少の記憶違いも気づかれないだろうが、直後にまったく同じ詩をもう一度読み上げるには、正確な反復が要求される(むろん彼女が細部を読み間違えた可能性はあるが[じっさい、ペロウンは一度目と二度目で受けた印象を若干異にしている]、少なくともバクスターに不信感を抱かせるほどのものではなかった)。彼女はそれを精神の力によってやってのけたのである。詩の内容もさることながら(あるいはその韻律の美しさも考慮に入れつつ)、バクスターはこの明澄な精神の働きにこそ感銘を受け、ナイフを収めることにしたのではないか。彼は、自分が持ちえないことを(DNAによって)宿命づけられていた十全な理性の顕現に対してこそ、畏敬の念を覚えたのではないか。

 

 むろん、バクスターはそれが暗唱された他人の詩であることを知らないため、論理的に考えればこのような読みは成立しない。しかしながら、バクスターが、自分が聴取したもののうちに、自分自身に決定的に欠けた何ものかを明敏に聞き取った可能性を見ることはなお可能であるように思われる。ペロウンは、「バクスターは、デイジーがいくら教育しようともこの自分には聞き取れなかったしこれからも聞き取れないであろう何事かを聞き取ったのだ」(340頁)と考えている。それは「本人さえ本質をうかがい知ることのできないような憧れの火をともしたのだ」(340頁)とも。少なくともその一部が、バクスターの肉体と精神とに深い損傷をもたらしたCAGの反復と共鳴し合うような種類のものでなかったと、誰に言い切ることができるだろうか。

 

 他人の詩を暗唱するところから詩作を開始し、自分が創り出した詩を収めた詩集の出版を決めたデイジーは、再び他人の詩を暗唱することで窮地を乗り切り、今度は自分とは別の新たな命を産み出そうとしている。全裸にされたことで、図らずも彼女の妊娠が家族に知れることになったのである。彼女が宿した新たな命は、そのDNAにどのような反復を刻みつけられているのだろうか。デイジーによってバクスターのうちに灯された「憧れの火」を守るために、ペロウンは彼の手術を引き受け、機械的な正確さでそれを成功させる。「人生には、他人の命を救う以上のことがあってよいはず」(36頁)と嘯いていたペロウンがここで救ったのは、したがってバクスターの命そのものというより、やはり彼の内に灯った何ものかということになるのだろう。そして、その手術に際してペロウンがBGMに選んだ音楽がアンジェラ・ヒューイットの演奏による「ゴールドベルク変奏曲」であるというのも注意を向けておくべき細部だろう。彼がお気に入りのグレン・グールドではなくここでヒューイットを選んだのは「反復を省略せずにすべて演奏している」(303頁)からにほかならなかった。

 

 さらに、ここで忘れてはならないのは、ペロウンに聞き取れなかった何事かをバクスターが聞き取れたのは、おそらくは彼が抱えていた病ゆえだということである。己の人生を賭して一編の詩のなかに崇高な美を見出しうること、その賭け金が致命的な病理だとしたら、それはやはり間尺に合わないことなのだろうか。それが希望や可能性であるなどと軽々しく言ってしまいたくはないが、本作に見出されるような精妙な均衡を、少なくとも美しいと感じてしまうことを、私は自分に禁じることができない。

 

 あのときもしも明け方に目覚めて妻とセックスしていなければ、もしもスカッシュに出かけていなければ、もしも9月11日にテロが起こっていなければ、その後の戦争が起こっていなければ、その戦争に反対するためのデモが起こっていなければ、あるいはもしも自分のDNAを構成する塩基配列があとほんの少しだけでも違っていれば……。無数の「もしも」の網の目の中にいたはずの我々は、そこにただ一つの道筋だけを書き込んでいく。そうであるとすれば、わずかな差異を伴いながら日々を積み上げていく我々の人生はDNAの反復的な形状をこそ志向しているのだろうか。我々が伴侶を必要とするのは、二人の日々を折り合あわせることによって二重らせん構造を模倣するためなのだろうか。本作によってマキューアンが成し遂げた最大の功績は、DNAの塩基配列を文学に昇華させたことであると言えるかもしれない。ともあれ、彼らも我々も、緩やかに綻びゆく肉体と精神を抱えながら、また次の土曜日を待っている。

 

[1] 引用およびそのページ数は、邦訳はイアン・マキューアン『土曜日』(小山太一訳、新潮社、2007年)により、原文はIan McEwan, Saturday, Vintage, 2006. に基づいている。

 

土曜日 (新潮クレスト・ブックス)

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