There's Something Fishy

映画研究、文芸批評、テニス評論

人が映画タイトルを誤るとき

人が映画タイトルを誤るとき

 

 世界映画史上、小津安二郎ほどその監督作品のタイトルを間違えられた映画作家は他に存在しないでしょう。たとえば、2013年10月に小津の生誕110年/没後50年を記念して刊行された『ユリイカ』の臨時増刊号[1]では、映画タイトルの誤記が20箇所以上見られます。さらに俳優の名前や映画の内容に関わる明らかな誤りを加えると、その総数は実に30箇所にものぼります。一冊の書物の中にこれほどの量の誤りが集中するというのは異常な事態です。しかも、ここで犯されている類の誤りは、小津を論じた別の書物でも頻繁に見られるものなのです。そうであるとすれば、これは単に著者や編集者の怠慢であるということを超えて、小津安二郎の映画が本質的に備えている何事かに関わってくるということになるでしょう。そこで本稿では、小津映画のタイトルや内容に関して批評家たちが犯した誤りやそれに類する記述を具体的に検討していくことで、その一端を明らかにすることを目論みます。

 

 小津の映画をめぐる誤りがここまで多いのは、小津映画が人に誤りを強いる性質を持っているからである、というのがさしあたりの仮説です。その意義については改めて検討するとして、まず二つの画像を見て、間違い探しをしてもらうところから議論をはじめましょう。

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図1と2はいずれも映画『東京物語』からとってきたものです。一見したところ同じ構図をもった同じショットであるかのように思われるかもしれませんが、この二つはまったく別のショットとして理解されなければならないものです。ここではとりあえずフレーミング、照明、映し出されているもの(画面中央やや左下の煙突からでている煙)の三つの点で明確な違いを認めることができるということを指摘しておくにとどめます(ここでぜひとも追記しておきたいのは、これらは小津映画においてはむしろあからさまな差異だということです)。

 

 さて、前述の『ユリイカ』に見られた最も多い誤りは『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(1932年)の後半部分を「生まれてはみたけれど」として、原題に存在しない「ま」を送ってしまうというものです。この誤りは、舩橋淳、齋藤環、吉田喜重鈴木一誌が犯しています。また、鈴木は、これに加えて『生まれてはみたものの』といった表記もしており(170頁)、さらに、「昌二」であるはずの役名を「昌一」としていたり(170頁)、司葉子岩下志麻の出演作を勘違いして役を取り違えたりもしています(171頁)。俳優の名前で間違えられやすいのは東野英治郎東山千栄子で、本書においてはそれぞれ四方田犬彦蓮實重彦が、東野英「次」郎(44頁)、東山千「恵」子(66頁)と誤って記しています。さらに四方田は、論考の冒頭で香川京子原節子を取り違えてもいます。タイトルの誤りに戻ると、本来『晩春』と書かなければならないところを、中野翠は『暖春』(12頁)、小沼純一は『晩秋』と表記してしまっています(202頁)。

 

 ここで注意しておかなければならないのは、前段で確認した誤りには質的な差があるということです。すなわち、「生まれてはみたけれど」のような誤りは、当時と現代との慣習的な送り仮名の差から生じる、単なる変換ミスです(これに類するものとしては『お早よう』[1959年]を「お早う」と表記してしまうケースも散見されます)。また、俳優名の誤りも基本的には漢字の変換ミスと考えてよいでしょう。一方、役名の取り違えやタイトルの混同は、こうした誤りとは性質を異にするものであるように思われます。ここでは観客の記憶の混濁ぶりが問題となってくるからです。

 

 なぜ小沼純一は『晩春』を「晩秋」と誤って書いてしまったのか。それは小津のフィルモグラフィを知っている人間なら誰でも即座に合点がいく理由によります。試しに小津映画のタイトルをいくつか並べてみると、そこにはたとえば『晩春』(1949年)、『麦秋』(1951年)、『早春』(1956年)、『秋日和』(1960年)、『小早川家の秋』(1961年)、『秋刀魚の味』(1962年)といったものが含まれているのを確認することができます。このとき、小沼の誤りは、『晩春』と『麦秋』という二本の映画のタイトルを混ぜ合わせたものであるということがわかります。また、中野が「暖春」と記したのも故なきことではありません。『暖春』(1966年)というタイトルの映画は現実に存在しており、これは中村登監督が小津と里見弴の脚本を脚色して撮った作品ですから確かに小津に縁はあるわけです。あるいは、もっと素朴に、『晩春』や『早春』があるのなら、そこに「暖春」が加わっていても良さそうな印象を受けるといった向きもありうるでしょう。[2]

 

 したがって、人があまりにも容易く小津映画のタイトルを誤ってしまうのは、とりあえずはタイトルそれ自体が相互に似ていて紛らわしいからであると言えます。さらに、小津映画には、そのタイトル名において統括されることになる映画内容もまた相互に似通っているという特徴があります。たとえば『晩春』も『麦秋』も、原節子扮する紀子という女性の結婚を巡る話であり、笠智衆杉村春子、三宅邦子など主要な出演俳優も重複しています。原節子の友人役を淡島千景が演じていたのがどちらの映画だったか、即答できる人の方が少ないでしょう。さらに、『彼岸花』(1958年)、『秋日和』(1960年)、『秋刀魚の味』(1962年)などの小津映画でも娘の結婚は物語の中心をなしています。また、『秋日和』は『晩春』のセルフ・リメイクとも言える作品で、『晩春』で自ら結婚する娘を演じた原節子が、今度は司葉子演じる娘を結婚させる母親の役を演じています。『秋日和』で「姉妹のように見える」と言われていたその原と司の母娘は、次の『小早川家の秋』(1961年)ではじっさいに義理の姉妹という設定でそろって登場してしまうのです。セルフ・リメイクということであれば戦前のサイレント作品『浮草物語』(1934年)と戦後の『浮草』(1959年)がまさにそういった関係にあります。また、『生れてはみたけれど』(1932年)は『お早よう』(1959年)と多くのエピソードを共有しており、これもほとんどリメイクといってよい関係にあります。

 

 あるいは、映画音楽の次元でも、小津は同じ音楽を別の映画で使い回すということを平気でやっていますし(『早春』で使った通称「サセレシア」を『東京暮色』のテーマ音楽として再利用)、そうでなくとも、齋藤高順を迎えた『東京物語』以来、曲調の似た音楽を求めつづけています。この種の類似は、既に散々指摘されてきているように、登場する小道具(小津の私物の陶器、赤いヤカン)や登場人物の名前(繰り返し登場する平山だの間宮だの周吉だの周平だの昌二だのといった名前)、小津映画におなじみの台詞(「いいお天気ですね」、あるいは『長屋紳士録』[1947年]の記念写真の場面における写真屋の台詞「お母さま、お口をお結びになって」と、『麦秋』に出てくる写真屋の台詞「お母さま、あごをお引きになって」のような微妙な差異を伴う反復的な台詞)の水準から、個々の挿話(旅行先が箱根なのか修善寺なのか伊香保なのか)や物語の枠組みの水準(娘のお見合い結婚、あるいは繰り返される法事)に至るまで、精妙に反復されているものです。こうしたリストはほとんど無限に続けることが可能です(これが先ほど予告的に触れた人に誤りを強いる性質の内実です)。

 

 多くの人は、このような特異な小津映画の体系を前にして、個々の作品の内容を混同し、ある小津作品と別の小津作品とを明確に区別することができなくなってしまうのです。たとえば、内田樹はブログの記事中に引用した宝田明の台詞(「ああ、今日は愉快やった。札幌、いきとないなあ」)が『秋日和』(1960年)からのものだったか『小早川家の秋』(1961年)からのものだったか、明確に判断を下すことなく、曖昧にしたまま文章を書き進めています[3](ちなみにこれは明らかに『小早川家の秋』からの引用です)。内田は別に誤りを犯しているわけではありませんが、正しい判断も下していません(むしろここでは曖昧であることのうちに内田の考える小津的なものの積極的な良さを読み込んでいるようにさえ見受けられますし、それはそれで一面においては正当な態度だとも思います)。内田がこの二作品の内容を混同したのは、二作品とにも、この場面で宝田明が話しかけている司葉子が出演しているからだと思われます(そして司が出演している小津映画はこの二本だけですから、判断に迷うとしたらまさにこの二本の間でしかありえないのです)。

 

 同様の態度は勝見洋一のエッセイ集『怖ろしい味』にも見られます[4]。これも明確に誤りと呼べるものではありませんが、勝見は、自分がリスボンで見た小津映画のタイトルを意図的に隠して記述を進めていきます。もしもここで具体的なタイトルを出して作品を限定してしまったら、このエピソードの持つ詩情は少なからず損なわれてしまったでしょう。というのも、このエッセイでは、リスボンと小津とあんぱんという一見するとちぐはぐな取り合わせがもたらした奇跡的な均衡の瞬間と、まさにその瞬間を生きた勝見の経験と記憶が問題となっているからです。それが一篇のエッセイとして美しいものであるためには、事実が書かれているかどうかということよりも、当然書かれている事柄同士がどのような関係を構築しているかということが重要になります。このとき、小津の映画は巧みなエッセイを構成するためのあくまで材料の一つとしか見なされていませんから、むしろ全体の調和を優先してその内容を曲げることは推奨されこそすれ、決して責められる筋合いのものではありえないでしょう。小津が自らの監督作品を含むあらゆるところから一つひとつの細部を借用して切り貼りすることで一本の長編映画を構築していった態度と通じるところがあるとさえ言えるかもしれません(ちなみに無粋な真似であることを承知であえてタイトルを特定するとすれば、勝見の記述に合致するような内容を持つ小津映画は『東京暮色』[1957年]以外にはありえません)。

 

 また、先ほども触れた四方田犬彦の女優の取り違えはそれが一本の映画の内部で生じた勘違いであるという点で、むしろ興味深いものとなっています。四方田は『東京物語』の終盤で、老母が亡くなった朝、夜明けを見たあとの老父(笠智衆)の傍らにいたのが末娘(香川京子)であると書いていますが、もちろんそこにいたのは義理の娘(原節子)であったはずです。しかしながら、じっさい映画の中でこの二人は交換可能な存在として描かれてもいるのです。より正確を期した言い方をすれば、本作では三人の女性がともすれば交換可能な存在であるかのように描かれています。エッセイストの中野翠は、本作に出演している原節子、三宅邦子、香川京子の三人が「揃いも揃って白ブラウス+無地スカート」を身に着けている点を指摘し、このとき「三人の女は結局一人の女に過ぎないのではないか」との連想が脳裏をよぎったことを告白しています。「一人の女がグルリと体を一回転させた、その間に見せる三つの表情に過ぎないのではないか」と[5]。そうであるとすれば、四方田が幻視したような架空の物語も、この映画が未来の出来事として想定しているものの一部であると言えるかもしれません。

 

 この段落は、とりわけ議論の本筋からは外れた内容となっているので、先を急ぎたい方は読み飛ばしていただいて構いません。前段で見た小津映画における相互に交換可能であるような人物表象を、小説家の梶村啓二は「異時同図としての家族」と捉えてみせます[6]。「異時同図」とは文字通り、異なる時間の出来事を一つの絵の中で描いたもののことですが、小津映画で描かれる家族がまさにそのようなものとしてあらわれている点を指摘しています(梶村は特に『東京物語』の原節子香川京子をクローンのような存在であると評しています)。このことは本作の終盤で、台詞を通して端的に示されています。香川扮する末娘は、亡くなった老母に対する長男や長女の非情ぶりに憤って見せますが、それに対して原扮する義姉は「年をとると誰でもそうなっていく」のだといって優しく諭すのです。なりたくはないけれど、自分も、そしてあなたも、やがて自分のことで手一杯となり両親の面倒を見るための物理的精神的余裕を失っていくのだと。また、映画の画面も同様の事態を指し示しているように思われます。亡くなった老母の周りに長男(山村聰)、長女(杉村春子)、義娘(原節子)、三男(大坂志郎)が座っているショットがありますが(図3)、この場にいない父親を探しに行くために義娘がその場を立つと(図4)、廊下の奥から音もなくあらわれた末娘がただちにその空位を埋めてしまうのです(図5)。これは『東京物語』全篇のみならず、小津の全映画を通してもっとも戦慄すべき瞬間の一つであるように思います。

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 さて、ここまでの議論で確認してきたのは、タイトルと内容が相互にあまりにも似通っている小津映画が、人をどのように事実誤認に至らしめるのかということでした。この確認作業を通して明らかとなったのは、どうやら小津映画は、その特異な体系を通して、それを見たものに新たな物語を創造させてしまうらしいということです。すなわち、ここで誤りというのは同時に元の映画ではない、その誤りを犯した観者独自の、別の物語を意味することになります。もちろん、いかなる映画や小説、出来事であれ、経験者の身体と精神を通過したものはすべて加工品であり、その意味では常に新しい物語だということになるでしょうが、どうも小津映画の観客にはとりわけそうした傾向が組織的かつ顕著にあらわれ出ているように思われるということです。このとき重要な働きをするのが観客自身の記憶です。たとえば、『晩春』と『麦秋』の内容を混同するというのは、小津映画をめぐって観者の記憶が混濁しており、そこに混合物としての別の物語(「晩秋」)を立ち上げるという事態に他なりません。同様に内田樹は『秋日和』と『小早川家の秋』が同居している小津映画そのものとは別の物語を記憶していたことになります。勝見洋一のエッセイの場合は、より露骨に、自らの記憶を小津の映画内容と溶け合わせるようにして、文字通りそこに新たな詩情を生み出しています。小津映画をめぐって混濁した記憶は、そこに自らの経験をも容易く織り交ぜてしまうらしいのです(年をとらないと小津映画の良さはわからないと言われたり、じっさい小津映画をダシにして人生論をぶちたがる人が年長世代に多かったりするのは、そうした理由によるのかもしれません)。四方田犬彦の取り違えが興味深いのは、それが複数の小津映画を混ぜ合わせてできた物語ではなくて、一本の映画の中に別の物語を幻視した点にあります(これは小津の仕掛けた差異と反復の体系が、複数の映画をまたぐ場合にはもちろん、一本の映画の内部だけでも機能する肌理の細かさを備えていることを示すものでしょう)。

 

 こうした曖昧な態度、すなわちともすれば映画内容やその画面の正確な把握など問題ではないし、場合によっては間違っていても構わないという態度に明確に否を突きつけたのが蓮實重彦の表象批評です。蓮實は、小津を語る人々が、ろくに画面を確認もせず、「小津的なもの」として適当にごまかしていることを『監督 小津安二郎』(1983年)の中で厳しく批判していきます。しかし同時に、映画における表層批評とは、そうした批評家たちのやり方とは別のやり方で、同じものを見ていながらそこに別の種類の物語を立ち上げる行為にほかなりません。それがどこまで映画の画面に基づいたものであるかという点で、蓮實の仕事は決定的な衝撃をもたらしましたが、実はそうした読みを可能にしている前提は、蓮實以外の論者を誤りに向かわせたものと同根であるさえ言えるかもしれません。いくつかのテクストを経由して、この点を具体的に確認してみましょう。

 

 蓮實重彦は「日本フランス語フランス文学会」の50周年記念大会(2012年6月2日)における講演の冒頭で、それからほぼ二年後の2014年に刊行されることになる『「ボヴァリー夫人」論』の原稿の行く末について、「再読されたのち、さらにいくらかの加筆訂正がほどこされてから印刷所に送られるのはおそらくこの晩秋、刊行は早くて来年の晩春、遅ければ麦秋のころ」[7]になると述べています。ここでは「晩秋」、「晩春」、「麦秋」という表現が同時に用いられていますが、既に確認したように『晩春』、『麦秋』は小津の代表作のタイトルそのものですから、このとき蓮實の念頭に小津の存在があったことは明らかです。興味深いのはその二つの小津映画のタイトルに加えて、「晩秋」という表現が並べられている点です。この三つの表現は、あとの二つが固有名詞のイメージを帯びてくるために、著しく均衡を欠く並びをなしていることになります。

 

 ここで蓮實は小津映画のイメージに依拠しつつ、そこから逸脱する自らの物語をも同時に立ち上げようとしているのです[8]。実はこれに似た振る舞いを、蓮實は『監督 小津安二郎』の中で既に垣間見せていたのでした。蓮實は、還暦の誕生に亡くなったという小津の伝記的事実にこだわり、参照項として『戸田家の兄妹』(1942年)に言及します。『戸田家の兄妹』は、冒頭で母親の還暦の誕生祝いの日に亡くなる父親を描いた映画ですが、蓮實によれば小津映画にあっては男女の性別は常に交換可能なものとしてあるため[9]、「小津安二郎は還暦の年の六十歳の誕生日に死ぬ家長を題材とした作品を撮って何の不思議もない作家」であり、「正確に六十回目の誕生日に途絶えることになる小津自身の生涯が、その存在していない作品なのである」ということにさえなります(200頁)。ここには、のちに自らの講演の中で、じっさいには存在しないものの、小津映画として存在していてもおかしくはないような「晩秋」という言葉を口にするという彼の振る舞いとの連続性が見てとれるように思われます。

 

 このとき、蓮實の表層批評という方法は、文学の手法を安易に援用した映画の安易な物語分析に対抗して、別の仕方で物語を立ち上げるための手法であったということが了解されます。画面に露呈されている表層を、主題論的な体系と説話論的な構造が縦横に張り巡らされた文字通りのテクストの上に位置づけ直すことで、これまで見過ごされてきた別の種類の物語を描き出してみせること。それが蓮實の目論見であり、『監督 小津安二郎』という著作の掛け金もまたそこにあります。ここで気をつけなければならないのは、それが結果として別の「物語」を産み出すための試みであったという点であり、そうした映画の読みを可能にする小津映画の構造的特質は、他の論者をそれぞれの小津論に向かわせたものと本質的に同じであるという点です。もちろん両者は、微細な差異をなかったことにして新たな物語を立ち上げるのか、それとも差異を差異として認識した上でそうするのかという姿勢の違いが必然的にもたらす結果として、その批評の質を決定的に異にしています。

 

 ただここで問題となるのは「ヴィデオを使わずに書かれた最後の映画批評」である蓮實のこの著作を、ヴィデオ時代以降の批評家たちが未だに超えられずにいることです。小津映画の分析に、ヴィデオ(あるいはレーザー・ディスクやDVD、Blu-ray)を用いることの意義を暗に明に示した書き手は何人も存在していますが、にもかかわらず分析の緻密さの点ですら蓮實に大きく水をあけられているのが現状です。もちろん、ボードウェルの大部の小津論は徹底的に緻密と言いうる稀有な研究書ですが、それが批評的な刺激に乏しいという致命的な欠陥を同時に抱えてしまっています。今日、小津を論じようとする我々は、そろそろ蓮實の業績を相対化しうるような衝撃を備えた批評を世に送り出さなければなりません(何といってもそれはもう30年以上も前の仕事なのですから)。小津映画をめぐる間違いの多さを契機として始められた本稿は、小津の特異性を改めて確認することで、いわばそのための準備を整えたに過ぎないものです。

 

 

[1]ユリイカ』、青土社、2013年11月臨時増刊号。

[2] 議論の本筋からはいくらか脇へと逸れることになりますが、ここで小津の英語版タイトルの混迷ぶりについても確認しておきましょう。前段で挙げた作品の英題を順に示すと、Late Spring, Early Summer, Early Spring, Late Autumn, The End of Summer, An Autumn Afternoonとなります。じっさい、ボードウェルとトンプソンによる映画研究の著名な入門書たる『フィルム・アート』の翻訳者たちは、ただでさえ紛らわしい原題に加えて、さらに事態をややこしくしているこの英題に惑わされたのか、文中と図版で『秋刀魚の味』と『小早川家の秋』とを取り違えています(ボードウェル、デイヴィッド/トンプソン、クリスティン『フィルムアートー映画芸術入門』、藤木秀朗監訳、名古屋大学出版会、2007年、202頁。)

 小津映画のタイトルの紛らわしさは別の系列からも確認することもできます。ここで繰り返されることになるのは「東京」です。タイトルに「東京」が含まれる小津映画は、『東京の合唱』(1931年)、『東京の女』(1933年)、『東京の宿』(1935年)、『東京物語』(1953年)、『東京暮色』(1957年)の五本です。相当な映画好きであっても、たとえば『東京の女』と『東京の宿』の内容を瞬時に区別できる人の数はそう多くはないでしょう。また、山田洋次が、小津に捧げたオマージュ映画に『東京家族』(2013年)というタイトルを付けたのもこの延長線上で考えることができるでしょう。『東京家族』では主として『東京物語』が下敷きにされていますが、それ以外の小津映画からも様々な細部を持ってきています。このとき、この「東京」という二字がそうした細部を統合する役割を果たすことになります。

[3] 内田樹「一瞬の夏休み」、ブログ『内田樹の研究室』、2007年8月30日(最終閲覧日:2015年8月12日)http://blog.tatsuru.com/2007/08/30_0725.php

[4] 勝見洋一『怖ろしい味』、光文社文庫、2007年。

[5] 中野翠『小津ごのみ』、ちくま文庫、2011年、35〜6頁。

[6] 梶村啓二『「東京物語」と小津安二郎ーー世界はなぜベスト1に選んだのか』、平凡社新書、2013年。

[7] 蓮實重彦『「ボヴァリー夫人」拾遺』、羽鳥書店、2014年、4頁。

[8] 蓮實はこの講演から約半年後の2012年12月15日に立教大学で『ボヴァリー夫人』に関する別の講演(「「かのように」のフィクション概念に関する批判的な考察」――『ボヴァリー夫人』を例として)を行っていますが、講演後の質疑応答時の、フロアからの質問とそれに対する彼の返答が印象に残っています。質問の趣旨は「小津安二郎の映画もまたある種の紋切型のコラージュが可能にする「かのように」に満たされたテクストと見なしうるものであり、その点でフローベールに通じるところがあるようにも思われるが、どうだろうか」といったようなものだったと記憶していますが、この確かにいささか礼を失しているかにも思われる「質問」を、蓮實は「小津とフローベールはまったく関係ありません」という一言のもとに斬り捨てていました。この反応は、フロベールを論じるという了解のもとに設けられたその講演の機会に即してまったく正当と言うほかないものですが、他方、質問者が発言している最中に、その説明に対して蓮實自身は何度かうなずいてみせていたようにも記憶しており、そこにフローベールと小津とに同時に惹かれていることを自覚していながらも、あえてその類比を論ずることを自制していた蓮實の分裂ぶりを見てとれる、というのはいささか穿ちすぎた見方でしょうか。しかしながら、このように考えてみたとき、やはり『ボヴァリー夫人』を論ずる場であえて小津映画を思わせるような表現を用いた動機のうちには、両者をどこかでわずかにでも結びつけておきたかったという書き手の欲望の存在を感じないわけにはいきません。

[9] 蓮實は具体的に『父ありき』、『晩春』、『秋日和』に見られる両親と子どもの性別の入れ替え、および『父ありき』と『一人息子』の一人親の性別の交換可能性について言及しています(同書、200頁)。

 

 

怖ろしい味 (光文社文庫)

怖ろしい味 (光文社文庫)

 

 

「ボヴァリー夫人」拾遺

「ボヴァリー夫人」拾遺