There's Something Fishy

映画研究、文芸批評、テニス評論

幽霊を蹴った話

 ホテルの客室に入ったときから何となく嫌な気配は感じていた。室内の空気が冷たかった。もちろん、暖房が入っていなかったのだから、廊下よりも寒いのは当然だ。しかし、そういうものとは違った種類の寒さを、僕はそのとき確かに感じていたように思う。じっさい、エアコンを28℃に設定してしばらくたっても、薄ら寒い感覚はずっと残り続けた。室温は確実に上がっていたし、ここに温度計を持ち込めば28℃前後を指しもしたのだろう。でも、背中のあたりに相変わらず冷たい空気を感じつづけていた。

 この時点でフロントに部屋の交換を申し出るべきだったのかもしれない。しかし、それがどちらかといえば心地よさに属するものであっても、確実に疲労を感じていたそのときの僕は、軽くシャワーを浴びて、すぐにベッドに身を横たえた。睡眠導入剤が効き始めるまでの30分ほどのあいだ(疲れていてもすぐに眠れるわけではないというのはなかなか難儀なことではある)、先月末に刊行されてそれなりに世間の耳目を集めたフランス現代思想の翻訳を読んでいた。同時に、SONY製のICレコーダー(おそらく『007 スペクター』でレア・セドゥが使っていたのと同じもの)ではその本の刊行記念対談を録音した音声を流していた。


 最近、音楽が持つ整合性に耐えるだけの心の余裕を失いつつある。あまりにも見事に整えられた音の連鎖に言い知れぬ不安を感じてしまう。人間ごときが音楽ほどに完璧なものを作ってしまっていいものだろうか。他方、公の場での対談とはいえ、人のおしゃべりにはほどよく雑味が混じる。その雑味が味わいになっていることに安心感を覚える。当然のことながら、完璧であることが常にいいことであるとは限らない。


 本を閉じ、灯りを消した後もICレコーダーの音は流し続けておく。子守唄代わりである。しかしその内容は、そのときの僕にとっては、少し壮大に過ぎたのかもしれない。二人の哲学者は不在の神について語っていた。より正確に言うなら、未だ来らざる神について。Dieu n'existe pas encore.キリスト教の考え方では、終末に際して全知全能の神が降臨し、よき人類を復活させることになっている。しかし、そうだとして、それではまさにいまこの瞬間に世界にはびこるありとあらゆる不正を許している神の存在を肯定できるだろうか。だから彼らは考える。神はまだいない、まだ生まれていないのだと。したがって世界の現在に対して神はいかなる責任も負ってはいない。神はこれからやってくるのだから。しかし、どこから? 純然たる無から、しかも突発的に。ではそのような「偶然性」に支配された世界で、なお倫理的に生きることが果たして人類に可能なのか?
 何十回も聞き返した音源なので、会話の内容はほとんど暗記している。この日、僕が眠りに落ちる前に聴いた記憶が残っているのはちょうどそのあたりまでだった。時間はおそらく午前2時半を過ぎた頃だったと思う。


 僕がTVの音で目を覚ましたのは午前5時半だった。突然、客室のTVがついたのだ。もちろん眠っている僕が寝ぼけてつけたわけでも、寝返りをうったときにたまたまリモコンに触れたわけでもない(リモコンは絶対に手の届かない場所にあった)。しかしそれ自体は特に気にするほどのことでもない。おそらく、隣室で操作されたリモコンの電波が、うまい具合にこちらのTVに届いてしまったのだろう。それに午前五時すぎというのは、ポルターガイストが起こるにしては幾分遅すぎる時間であるようにも思われた。そして、それはもちろん起きるには早すぎる時間である。僕はTVを消して、再び眠りの世界へと赴いた。
 

 こんな夢を見た。僕は何者かに追われて逃げている。その原理まではよくわからなかったが、彼らは僕の存在を一瞬で抹消できる器具を備えていた。その器具の射程距離に入ってしまったら一巻の終わりである。僕の行く手を蜘蛛の巣が邪魔していた。目の前の小道には延々と蜘蛛の巣が張り巡らされていた。走るほどにそれが身体にまとわりつき、動きを制限していく。昔どこかで読んだ記憶があるが、蜘蛛の巣の強度というのは相当なもので、充分な量を集めれば航行中のジャンボジェット機さえ搦めとることができると言う。やがて僕は走ることも、歩くことも、それどころか身動きひとつとることもできなくなって、その場に倒れ込んだ。


 このような言い方をするといささか奇異に響くかもしれないが、気づいたときには眼を開けていた。そしてその眼はベッドの隅に腰掛けている女性の姿を捉えていた。僕が彼女のことを見ていたのは、長くてもせいぜい一秒くらいのものだったと思う。彼女は着物を着ていた。表情は影になっていてまったく伺えなかった(あるいはのっぺらぼうだったかもしれない)。髪は肩口までのミディアム・ストレートで、半身をひねるようにしてこちらを見つめているようだった(眼があったかどうか定かでないのだが)。一秒間ののち、自分のすぐ足下に幽霊がいることを認識した僕は「うへあーー!!」というような間の抜けた悲鳴をあげながら幽霊のいるあたりの空間を右足で蹴り、枕元のスイッチをひねって灯りをつけた。右足は空を切っていた。彼女が座っていたあたりには、ハンガーにかけたバスタオルが吊るされており、それは就寝前に確かに僕がかけたものだった。


「幽霊の正体見たりバスタオル」


 でも、おそらくそういうことではない。彼女は確かにそこにいた。僕は彼女の姿を見た。彼女が感じていた悲しみのようなものにさえ触れていたような気がする。僕はバスタオルを幽霊と見間違えたのではない。そうではなくて、言わばバスタオルを依り代にして、そこに本当に彼女があらわれたのだ。
 いまだ神のいない世界に幽霊はいるのか。人類が絶滅したあとの世界で幽霊は生存できるのか。あるいは神が到来し、全人類を復活させたあとには幽霊の絶滅が待っているのではないか。楽園に彼女のための場所は用意されているのだろうか。
 

 僕が彼女の実在を信じる理由は、実はもう一つある。彼女を蹴飛ばした僕の右足には、今も確かに冷たい感触が残っているのである。